はまが見てきた歴史。生誕三十二周年特別企画

作成 平成12年05月27日 更新 平成17年06月11日

 はまちゃん!が生まれて37年。振り返ってみれば、いろんなことがありました。
この番組では、昭和43年から今までの出来事を特集いたします。

 記事の内容を年表から時代別に変更しました。

BGM:笑顔 作曲者 NORI NORI様のページへ


小学校入学まで(昭和43年〜昭和50年)
 はまちゃん!が生まれたのは、昭和43年5月27日。五島市の今は廃止になっている母子センターで生まれました。

 父親はカメラ好きで左のような写真をたくさんとりました。今ならさしずめビデオで撮影し、パソコンで編集ということをしていたようです。(撮影も現像も父親)。
 背景のテレビもその当時の様子を表しています。


 このころの記憶はほとんどありません。3歳の時には危うく死にそうになったり、予防接種の副作用らしきものが出たり、油でじんましんなどが出ていました。

 記憶があるのは4歳の時保育園でこれから昼寝をしようという保母さんの声と、おやつにアイスクリームがでたということでしょう。合成保存料、合成着色料、今では人体に影響があるとして使用禁止になった食品添加物をたらふく食べた世代です。

 昭和47年のあさま山荘事件で一躍有名になったカップラーメンをおやつや食事によく食べていたことを記憶しています。

★よく食べたお菓子〜かっぱえびせん、味カレー、チロルチョコ。
★よく見たテレビ番組〜科学忍者隊ガッチャマン。太陽にほえろ!
小学校(昭和50年〜昭和56年)
 はまちゃん!のスナップ写真は学生時代はあまりありません。残っていると言えば卒業アルバムに飾られた写真だけです。
 今でこそ、写真といえば携帯電話のカメラですぐに撮影でき見ることができ保存できます。小学校の時には、写るんですなどの簡易カメラなどなかった時代。写真はそれほど残していません。

 それに、体型が大きかったので、写真を撮られるのが好きではなかったので、余りのこっていない原因にもなりました。

 小学校低学年の時は、肥後の守という小刀、つまりナイフは、遊び道具の必須アイテム。削ったり切ったり、器用な人は凧を作ったりなど、ナイフを振り回して人を傷つけようとは考えてもいませんでした。自ら手を切って痛い思いをしていますからそこまで発想はなかったと思います。

 小学校から給食だったので、食事時間はよく同級生とおかわり戦争を繰り広げられていました。

 小学校高学年、昭和53年からインベーダーゲームが爆発的な人気で商店街の近くにゲームセンタができ見に行きましたが、1回100円はあまりにも高すぎた記憶があります。

 このころはサッカーより野球が盛んで、小学校対抗の野球チームができて年1回大会があっていました。はまちゃん!は野球が苦手なので、参加していません。
中学校(昭和56年〜昭和59年)
 中学校時代。あまり良い記憶はありません。

 最初はバスケットボールが好きで入部しましたが、土曜日曜練習かつランニングばかりでずぼらな性格が出たのか、2年生の時に退部。あのとき続けていれば、人生がちょっとだけ変わったかも知れません。

 中学校は男子は丸刈り強制でしたし、当たり前だと信じ込ませていたような記憶があります。今はそのような学校はあまり見かけません。

 はまちゃん!の中学校はそれほど荒れてはいませんでしたは、世の中の学校は校内暴力そして陰湿ないじめにつながっていこうという時期で、管理教育の下、風紀を統率する名目で、体育教師が大手を振って歩いていましたし、生徒に対しても威張っていた記憶があります。

 特定の生徒をひいきする教師、テストの成績が悪い者は相手にしないような、これでも教師かと疑問に抱くこともありました。

 朝は7時前に起きて、NHKのニュースと天気予報を見て、7時40分に自転車へ学校に登校というのが日課でした。

 学校の近くの文房具店で、着色料と甘味料がたっぷり入った、あやしげな炭酸飲料を飲んだり、今でもつきあいのある、中学時代の親友と田んぼ、山、磯に出かけ勉強は半ばおろそかであそんでいました。

 中学校の時は、いじめられたり、殴り合いの喧嘩をした一方、クラス一番の成績を取る生徒と、東アジアの地図を書いて、三国志ごっこなるものをして楽しんだり、給食の余ったジャムを集めてあげたりという休み時間を過ごしていました。

 新聞、印刷、きれいな文字が書ける機械に興味を持ち、それがコンピュータに興味を持ち始めるきっかけとなりました。

 昭和55年4月、任天堂がゲームウォッチを発売して人気を博し、こっそりポケットに忍ばせている生徒がたくさんいました。携帯電話をもってピコピコとたとえたらよいでしょうか。

 任天堂のゲームウォッチは面白いものが多かった。しかし、授業中にうっかりスタートボタンにふれ、ゲームオーバーまで電子音が響いたという強烈な記憶があります。(つまり音を切る機能がなかったということですね)
高校(昭和59年〜昭和62年)
 あのときはまが若かった・・・。高校時代の写真を見て、ふと思ってきます。卒業して、この記事を書き換えた、平成17年6月現在で、入学から21年経過してしまいました。

 左の写真は昭和61年10月、就職試験帰りの船の上で、現在もこの船は、長崎〜五島福江間を往復しています。就航して4年の新しい船でした。

 高校時代は、同じ地区の高校に行くのが嫌で、隣町、当時福江市の高校へ試験を受けに行き合格しました。

 当時は合格するとNBCラジオで合格者名簿の読み上げを放送していました。
 掲示板で実際に見て、ラジオで聴いて、翌朝の長崎新聞で見ると合格の喜びが三回味わえたのですが、長崎県では平成8年の合格発表を最後に、個人情報保護の観点から廃止されました。

 部活動はいきなり柔道部に入部させられ、成績はのこさなかったり、サボったりしていましたが、最後までやめませんでした。


 バスで1時間の通学。同級生と座る席は3年間替わりませんでした。暗黙の了解で決まっていた記憶があります。

 一年生の時は、疲れて宿題を忘れ、放課後居残り勉強、赤点をいくつも取ってしまったなど成績はさほどよくありませんでした。

 進学が、就職かを考え、成績もよくないし、親への負担もさせたくなかったので、就職しました。


 そのときの先生が、大卒で働き始めると、高卒で働き始めても、定年までもらえる賃金はさほど変わらないという言葉は今でも鮮明に覚えています。

 このころよく食べたもの〜ごえんがあるよ。(5円の形のチョコレート)
 めざせまるきん〜50円玉のチョコレートで値段は50円。おまけのシールと、1000円の当たりくじがあった。結局は1000円以上つぎ込んでしまった。
就職〜成人式まで(昭和62年〜昭和64年)
 地元で就職をしたはまちゃん!。通勤手段がバスから自家用車、移動方向が変わっただけで、大きな変化はなかった。

 ただ、宿題と定期試験から解放されたのは紛れもない事実でした。同級生の大半は、大学へ就職へと島外に出て行きました。これは日本どこの過疎地でも共通しているのでしょう。

 会社の上司が偏屈というか変わり者で、トラブルが時々あったのですが、組合に入り、むちゃな手出しをしなくなりました。

 20歳になった昭和63年は、昭和天皇が倒れ、自粛ムードの下、長崎くんちも中止。それぞれのイベントも軒並み中止に追い込まれました。
  テレビニュースでは、昭和天皇の血圧、どれだけ出血があったなど、昭和64年1月6日まで伝えられました。

 離島の成人式は、正月三が日に行うことが多く、はまちゃん!も1月3日に行きました。当然日付の元号は「昭和」でした。

 女性は振り袖であでやかになり、男性はスーツでばっきり決め、表情は高校生とさほど変わりませんでしたが、大人の仲間入りをしたんだなという漠然な考えしかありませんでした。
成人式〜長崎異動まで(平成元年〜平成4年)
 このころの世界は、今では歴史教科書の一項目になっている、ベルリンの壁崩壊。東西ドイツの統一。共産主義国の老舗ソビエト連邦の終焉、中国の天安門広場の騒乱など、今までの東西陣営という枠組みが大きく崩れたということになります。

 これで良かったのか、悪かったのかは後世の人たちが判断するのでしょう。日本ではバブル景気から一転して不況へ続くという世の中でした。
  平成4年6月。長崎市内への会社へ異動のため、24年間過ごした、田舎を出て、あれからもう十数年経ってしまったのですね。

 わずかな荷物と趣味のアマチュア無線機を携え、長崎県の中心地、長崎市内へ踏み入れました。
30歳まで(平成4年〜平成10年)
 新しい職場は総勢200人以上の大所帯でした。すぐに同僚や上司と仲良くなり仕事も充実しました。

 五島出身者も多く、年に何回か集まって飲み会など盛んでした。

 ここで彼女が出来て、ゴールインを期待していましたが、その時期はまだ早かったのか、女性にすかれなかったのかは判りませんが、高校卒業の時25歳までにはゴールインするぞと友人に宣言してから、平成17年6月現在、その宣言はいまだに達成されないままです。

 後輩が学校で嫌がらせにあっているとの相談に乗ったり、なんぞねっとの前身のパソコン通信の集まりに入って、どのようにしたら楽しくできるかなどと代表者と食い倒れをしながら、楽しい20代を過ごしていきました。

 リサイクルショップであやしげな電子機器を買ったり、ファミコンカセットを集めたり、半ばオタクといわれそうな気がします。
 平成7年11月から約4年3か月、オフコンのオペレータにかかわり、計算好きだったはまちゃん!は、仕事に行くのが楽しかった記憶があります。
 楽しくても、勤務時間はしっかり守りました。

 巨大な鉄のかたまり計算機が動いている姿は、計算機をしているぞという証を感じました。

 パソコンも真っ黒い画面で、コマンドを入力するタイプからWindowsに変わって、誰もが今のように苦労せずにコンピュータをあつかうようになりました。

 いまだに、コンピュータといえば、広い部屋にデンと構えた鉄のかたまりで、オープンリールの磁気テープ装置がせっせと回転しているという姿が真っ先に出てきます。


30歳代中盤まで(平成10年〜平成15年)
 あのころはまが若かかった。を書いたのが平成12年の誕生日。

 前年は、2000年問題で世界中がコンピュータの誤作動を危惧していました。同時に、ノストラダムスの予言が見事的中して、世界はTHE ENDになってしまわないかと恐れることもなく、あっという間に21世紀になってしまいました。

 世の中も十年一昔から、極端な話、去年が大昔だったという感覚に襲われます。それだけ世の中の動きは早いという証拠になります。

 中学時代、同級生が、B4の紙に鉛筆で新聞もどきを作り、先生からこれはちょっとひどいなとお叱りを受けました。(同時に良くできているなと関心はしていたようです)

 内容が同級生のゴシップ記事というか、フィクション記事。お互い信頼関係があったから、葬式ごっこなどして(先生から即撤去を命じられた)ゴシップネタにしたりするなどしていたことをきっかけに、長崎新聞の作り方を見よう見まねで初めて、新聞、印刷、そしてワープロへ興味が向いたことになります。

 その実績(?)が買われたのか、その同級生ののろいがかかったのかはわかりませんが、組合の機関紙を数年間作っていました。

 午後5時過ぎに仕事が終わって、約3時間、週3回作っていました。
午後5時過ぎに仕事が終わって、約3時間、週3回作っていました。

 長崎の会社が、平成16年1月に福岡に一本化されることを機会に、田舎へ帰ろうと希望をだしましたが、結果はアウト。引っ越そうかどうか考えましたが、田舎の両親などの事を考慮に入れ、引っ越しはやめました。

 おかげで毎日、福岡〜長崎を通勤しているということになりました。

そして現在(平成16年〜)
 福岡の会社は福岡市の中心、天神の近くにありました。

 福岡市街は今まで2年に1回、それも本州にでたりするときの博多駅を素通りするぐらいでしたので、地理は全く判りません。

 約3か月、ワンルームの社宅にいて、3月から長崎〜福岡の高速バス九州号での通勤が始まりました。
 

 

長くて短かったかな。

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